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ノドカッタルーイ2世
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    ノドが痛い。
    多分、ノドの傷みの原因は、
    こんな感じだと思う。

    ノドカッタルーイ2世.jpg

     

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    仮面ライダー響鬼(ひびき)の事情
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      『仮面ライダー斬鬼(ざんき)のトイザらス限定商品』です。


      これは『仮面ライダー響鬼(ひびき)』に登場する

      体力の衰えで引退した仮面ライダー斬鬼(ざんき)の武器です。

      武器と言いましてもこれはギターですね。


      このシリーズは音楽で敵を退治します。

      実は他のシリーズとはかなり変わった設定になっているため、

      このシリーズ関係の商品売上は非常に悪く

      生産数も少なくなり

      大変なプレミア化をしております。


      さて、このシリーズ何が従来と変わっているかと言いますと、

      まず、主人公が

      「乗用車」で現場にかけつけたりします。

      ライダーもへったくれもありません。


      さらに敵は、特定の名称はなく、

      単純に『デカいカニ』や『デカいクモ』などが敵です。


      それらをどのように主人公響鬼(ひびき)が倒すかというと、

      その『デカいカニ』などの上に乗り

      自分の専用武器である太鼓のバチで、

      リズミカルに思いっきり相手を太鼓代わりに叩き続けます。


      正直かっこ良くはないです。


      後輩の轟鬼(とどろき)が1人で敵のいる現場に向かった際

      やはりまだまだ戦闘力は弱いですので、

      敵にボコボコにされてしまいます。


      ここで皆、響鬼(ひびき)はいつ助けに現れるのだろうと考えるのが普通です。


      が、

      驚くべきことに

      その日の響鬼(ひびき)は「オフ」です。

      故に女性とデートをしておりました。


      「オフ」だったがために後輩1人で戦いに赴いたわけです。

      しかしながら、

      このままではやられてしまいます。

      早く響鬼(ひびき)が助けに行かなければと

      こちらは思います。


      しかし、響鬼(ひびき)は「オフ」です。

      なんと響鬼(ひびき)は最後まで助けに行かずデートを

      「完遂」させます。


      正直バイトの経験をしたことがある人なら共感できる

      憎しみが湧くと思います。


      乗用車、デカい〇〇、シフト制、必殺技はバチで叩く。


      このように『仮面ライダー響鬼(ひびき)』は

      ライダーシリーズとしては異質な

      ストーリーであります。

      これらの実社会の労働に根付いた世界観に

      世のお子様たちの共感を得ることが出来ず、

      商品の売上の低迷に繋がったのではと私は考えます。


      興味がありましたら、

      一度ご覧になってみてください。


      ちなみに

      引退した「仮面ライダー斬鬼」は32歳で体力の限界で

      ドクターストップです。


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      電車操縦型音楽機材完成。
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        電車操縦型音楽機材完成。USB2.0対応。

        Train operation type music equipment was completed. 
        USB correspondence.


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        花をかむ
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          10年程前から違和感を感じていたのだが、

          テレビのバラエティ番組にて頻繁に笑いの偶発的な起爆剤として、

          「かむ」という現象がある。

          これはもう視聴者の市民権を得たといっても過言ではないほど浸透しているのだが、

          つまりは出演者がなにかしらを話そうとして、

          口が回らなくなったり、

          言葉として聞き取り辛い状況を自分の意図と反して作りだしてしまった出演者を、

          周りが「冷やかす」ことによって笑いを起こすというものである。

          この「かむ」という現象は、

          日本の精神分析学では、

          「失錯」或は「錯誤行為」と呼ばれているものであり、

          大量の言葉や行為の混淆する深い無意識化から生じて、

          意識を貫きその欠片が肉体に現れる現象なのだ。

          これは万人に起こる事象である。


          しかしながら、

          10年以上前にはこのような状況から笑いを作り出すという現象は、

          ほとんどなかった。

          では何故このような笑いの新しい作為形態が設立されたのか。

          私の推測では、テレビ画面の下に出るテロップの嵐が諸悪の権化ではなかろうか。

          テロップを制作する上で、

          出演者にゴチャゴチャとした聴き取り辛い言葉を発せられてはテロップにならない。

          それを出演者が察知し「冷やかし」を笑いにしてしまうという寸法であろう。

          もしこれが舞台やドラマや映画などであれば即NGである。

          私は台本にないフリートークなどであれば、

          別段笑いを構築する上でのこの作為は必要であったのだろうかと

          合点のいかないところがある。

          本来目指すべき笑いへの行動が終着地に着く事が芸であり、

          これら「かむ」ことは笑いに執拗に転化するべきことではないように思う。


          私はこの作為も、もうそろそろ終末を迎える頃だと思っている(現在2012年3月1日)。

          ドラマのNGシーンなどを集めた番組なども昔はあったが、

          今は見る事も無くなった。

          人の失敗を笑うのもいかがなものかというところであろうか。

          この作為の花もいずれは萎み、

          散っていくものであろうと思う。

          「時花」と書いて「はやり」と読むことはよく現実を捉えた言葉であり、

          この作為の花も時に流されることには

          やはり敵わないであろう。

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          目覚めてすぐの…
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            「目覚めてすぐにキスできる」という謳い文句の下に、

            外国人の男女がベッドに横たわりながら顔を突き合わせて笑っている写真が付属されたポップが置いてある。

            その下に目を向けると、

            どうやらこれは新たに発売された歯磨き粉のポップであるらしい。

            見るからに外国産であるような英字の羅列と独特な緑色の光沢とを帯びて、

            カチカチと固そうにした歯磨き粉がずらりと並んでいる。

            「目覚めてすぐにキスできる」とはなんぞやと、

            概要を拾い集めて推測するに、

            朝目覚めた際のまさに「開口一番」のあの口臭を、

            前の晩にこの歯磨き粉を使用すれば、

            立所に消えているという優れものらしい。

            あの「開口一番」は確か「モーニングブレス」という名である。

             

            誰しもがあの一番は臭いものだ。

            オシャレな喫茶店の店員のあの娘も、

            オシャレな雑貨屋の店員のあの娘も、

            とにかくオシャレなあの娘も、

            あの一番は臭いのだ。

            これは非常に困ったものだということで、

            開発されたのがこの歯磨き粉なのだろう。

             

            しかしながら、

            「目覚めてすぐにキスできる」という謳い文句があるのだから、

            男女が一夜を共にし、

            その翌朝に一番の効果を発揮するということが伺える。

            つまりは、目覚めてすぐに相手側がいないと、

            この歯磨き粉は何の意味も成さないわけである。

            陳列棚をよく見渡せば、

            外泊用パックとしても大量に売られている。

            そしてこの歯磨き粉が1000円以上と意外と値段がするのだ。

             

            もし付き合っている二人で、

            何度も寝起きを共にしているのであれば

            別段今更買う必要もないであろうから、

            これは初めて一夜を共にする男女用としては

            特別効果的なのかもしれない。

            確かに、大変に盛り上がった昨晩から、

            急に明るい日差しの差し込む現実へと覚醒し、

            「開口一番」にザリガニの腐ったような臭いが漂ってしまったならば、

            盛り上がりの余韻も一片に崩壊し、

            対面する相手は所詮肉の塊にすぎないのだと思ってしまうことになるだろう。

            自分はこの肉塊と何故致してしまったのだろう、

            よく見れば大した人間ではないじゃないか、

            速やかにこの肉塊をどこかに放り投げてしまいたい、

            などと折角の人と人との新たな邂逅も

            いたずらな嫌悪と殺意とで終えてしまうこともあるだろう。

             

            と考えるに、購入者はここぞという時に、

            この歯磨き粉を使用するのではなかろうか。

            そうして今夜はそうなるだろうという予知をもって、

            携帯用の歯磨き粉をバックに忍ばせるのである。

             

            しかしながら私自身は、

            まったくもって興味がない代物である。

            むしろ自分の「開口一番」が

            もしも威風堂々とした臭さでもって

            相手に接触することがあったとして、

            それであっけなく破綻を迎えても一向に構わない。

            むしろそれを好んで付いてくる者が、

            自分にとって信用たる人間であり

            益々の好意を抱いてしまうからである。

             

            逆の立場であっても同じで、

            相手から表現の自由を奪われそうなくらいの臭いのお出迎えがあったとしても、

            一向に構わない。

            いや、そうであってほしい。

            つまり、無臭では退屈なのである。

            生身の人間であるのだから、

            口臭があって当たり前であり、

            それが乱痴気の夜の後ともなれば、

            乱痴気の余韻を口臭と共にまた甦らせてくれるのだから嬉しい限りである。

            昨今の若者は、

            無臭である通称「ムシューダ」が良いだの、

            乳首は桜色が宜しいなどと、

            言っているが私はそうではない。

            自分は自分であるという確固たる臭さと、

            紆余曲折の人生を渡り歩いてきた乳首の黒さで持ってして、

            私の興奮は天を突き抜けるのである。

             

            ここまで読んだ者で付いてきている者は

            半数以下であることであろうが、

            分かる者には分かる言葉で単純に述べると、

             

            「このオシャレでつぶらな瞳のこの娘が、

             まさかのなんたるザリガニ臭を意気揚々と行進させてくるのだ!

             私を恍惚にさせる術をこの娘はもうすでに持っている!」

             

            これで分かる者は

            私側の人間ということは言うまでもあるまい。

             

            しかしながら、

            「開口一番」どころか二番、三番、

            むしろ「開口」自体が大変な状況にあり、

            今では「開高 健」と呼んでおります、

            という方がいるのであれば、

            至急この歯磨き粉をお薦めしたい。

             

             

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            恵まれない環境で。『Agony Part 1』
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              重たい雲の合間から酷く弱々しい光が漏れだす夕方に目が覚め、

              ぼんやりとベランダからその一通りを見つめていると、

              内包していた自分の感性とも言えないようなまだ未熟な何かしらが、

              胸を撫でて呼吸をする度に甘い味がするような気持ちになった。

              この情景に相応しい音をこの際に欲してしまうのは、

              音楽に携わる身として才能というものがあると言えることなのだろうか。


              1997年から2000年までに制作されたトラックの集大成、

              Delarosa and Asoraの『Agony Part 1』というアルバムがある。

              これはPrefuse73で有名なギレルモ・スコット・ヘレンの初期作品集である。

              このアルバムは当時流行していたグリッチなビートを採用して全体を表現しているが、

              聴衆側はschematicからリリースであることも手伝って、

              Max/MSPやSuperCollider等を使用してランダム生成からオーディオ編集しているに

              違いないと思っていたであろう。

              しかし実際は、彼の友人から聞いた話によると

              彼はPC操作には大変疎いとのことで、

              (後にインタヴューなどで知られていく事になるのだが)

              ほとんどPCは使用していない。

              つまりは自動生成による緻密な音響作品だと思われていたアルバムは

              後のPrefuse73で明るみになるまで、

              PCから奏でられていたと思われていたと考えられる。

              この時彼は愛用のAKAI MPC2000XLを使用し、

              パッドを手で叩き緻密な音楽を肉体の躍動から生成していたのであろう。

              当時MPCをこのような手段で使用していたのは稀なものであるが、

              アルバムもよく聴けばMPCに搭載されている機能とグルーブ感を理解することが出来る。

              冷静に聴けば流行の繊細なグリッチビートを構築することは可能ではある。

              彼はそのグリッチなビートをPCを使用せずに制作するにはどうしたら良いものか考えたあげくに、

              自分の使い慣れたMPCに手が伸びたのだと考えられる。

              そしてMPCの機能を全開に使用し、

              アルバムは完成したのであろう。

              これにより、アルバム全体にはビートの確実性の傍らに、

              微量のズレや手打ちによる更なるランダム性が生まれ、

              アナログ機材独特の暖かみを付加させることが可能となった。

              サンプリングされた音を器用にカットアップし、

              細かくループさせビーッという音を鳴らし、

              それぞれを感覚的に配置、

              彼自身の持ち味でもある独特のペーソスも加わっている。

              タイトルにはPart1と記されてはいるが、

              シリーズ化はされておらず彼のインタヴューでも

              この名義での制作はすでに終了していると述べていることは誠に残念なことだ。


              私がこの作品で愛している点は、

              7曲目まで盛り上がり、

              「Paz Suite」という曲がパート4まで続き、

              すべての要素を発露したところで、

              そこから現代音楽調のトラックを

              8曲も続けるところなのである。

              すべて全力投球で制作されるアルバムが多い中、

              この弱さとダラリと思いつきとしか思えない

              その場で肉体に任せた音響世界は大きな役割を担っている。

              静寂が訪れ、終いかと思えば、また始まる、

              静かなカーテンコールが幾度も続くのだ。

              聴衆側はどのようにして聴いても良いという自由をここで会得することができる。

              私はこの部分に並々ならぬ愛情がある。


              最近の彼の作品の原点のすべてを

              垣間見る事の出来るアルバムである

              「Agony Part1」は彼の作品の中で

              私が最も愛して止まない作品である。


              決して豊かな制作環境になくとも、

              創作し続け完成させたこの作品は、

              10代の若者が金銭的にも恵まれておらず、

              機材も持ち合わせていないが、

              なんとか音楽らしきものを制作しようとして、

              カセットデッキで、

              繰り返し音をダビングし上乗せし続けて、

              なんとか音楽を完成させるような感覚にちかい。

              そのような心情に類似する彼の制作姿勢がとても愛すべき点の一つでもまたあるのだ。


              ※入手困難ではあるが、
               Delarosa And Asora 『Crush The Sight-Seers』も薦めたい作品である。
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              音楽活動やら生命活動やら
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                音楽活動と一言で表現してしまうと、

                なにやらスタジオでの録音と至る所でのライブ、

                そして販売する側への営業というような様々なことを

                行っているように伺われるかと思うが、

                自分の場合はこれではなく、

                ただの排泄と睡眠と諸々の中の一つに過ぎず、

                単純な生活の一部の一齣を覗かせているだけなのである。

                つまりは、生活、生命活動に内包されるものが、

                音楽活動である。

                これを音楽活動と呼んで良いものかは知らないが、

                肉体が活躍し音を構築し存続させているのだから、

                それで活動として認めても良いだろうと思って音楽活動をしております

                と人前で発表している。

                実際には、

                スタジオなど使用しておらず、ライブなどもほとんどしていない。

                スタジオなど大層な場を使用する金銭を持ち合わせてはいないし、

                ライブも生命活動ライブということになるわけで、

                所謂音楽活動イコールミュージシャンという形成を成しているわけではない。


                では一体いつどのような時に音楽が創られるのかというと、

                それは実際のところ自分にもよく分からない。

                表現したい感情を発露するための手段ということもあるが、

                それとは別にただの慰安にすぎないのだ。

                これといったシノプシスがあるわけでもないし、

                うつつの殻の中にいてコツコツと音をたてて生み出されたモノを内へ外へと出し入れし、

                それによって恍惚となり充足した気分に浸るのである。

                それが気持ちの良いものだからまた「ある時」に

                ふと手を動かしているのだ。


                これを発表することにより、

                あらゆる聴衆がそれぞれの受け手としての姿勢でもって

                自分のなにやらかとすり寄せることで、

                想いを現像させるのかもしれない。

                これにて自分の音楽活動は遂行されるのである。

                内包された体内のなにやらかをボトリと産み落とし、

                それを小さな集団の中でだけ分け与えられ、

                決して大きく明るみにされることなく終いになるのだ。



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