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2004年12月、私は原因不明の目の病気を患った。

右目である。

それによって右目の視界は世界が歪んだように見えることになり、

真っすぐ歩く事もままならず、

眼帯をして、左目だけでの歩行練習を始めた。

冬であった。

様々な医師に診てもらい、

血管に眩しいほどの色の付いた液体を流し込まされ、

眼球の毛細血管を調べても、

結局のところ今の医学では治療の仕様がないとのことであり、

自宅に帰りトイレで用を足せば、

グレープフルーツ色の尿が出るだけであった。


それから鬱病に発展、

何も出来ないような状態が続き、

眠る事も食べる事も、

一切人間行動らしきことを行うことが困難になり懊悩煩悶していった。


2005年にザッカリー・マストーンこと

『Caural』というアーティストが

待望の新作『Remembering Today』をリリースした。

作品の中では複雑の音響というよりも、

単純明快な音の整列を丁寧に編み込み、

思いついたアイディアはすぐに実践されていた。

1曲目の「I'm Way Too High」は特に顕著にそれが現れている。

彼があるバンドの演奏を観にいった際にその音と空間とを大変に気に入り、

この状況を何とか記録しようと思い、

携帯電話で自分の自宅に電話を掛けて留守番電話機能に音を録音させ、

作品内でこれを素材として扱い、

ループさせて使用しているところはまさに体験によって出現した現像写真の一つを

見事にコラージュしてみせるという彼のアイディアの優れた点である。

瞬間という刹那を捉え作品とする妙技は、

写真家アンリ・カルティエ=ブレッソンを彷彿とさせるところがある。

またある日彼は、

入手したヒップホップアーティストのブート版のCDが上手く再生出来ず、

同じ場所を何度もループしてしまう現象を聴き、

その際多少所謂"ハイ"の状態でいたものだから、

逆に心地良くなってしまい、

それを先程の留守番電話機能の録音素材とミックスしてしまおう

というユニークでいて捕われる事の無い純粋無垢な音楽制作を行っているのだ。


彼はこのアルバム制作までに、

実の母親を失ったり、

慣れない土地への引っ越しなどが重なっており、

身体的にも精神的にも転機の状態にあった。

引っ越して間もないアパートで、

家具もまだまったく無いような部屋でも、

段ボールの上にサンプラーを置き、

そこで制作を続けていたというのだから驚きである。


個人的にはこのように制限された中での制作というものに

私はとても好感を持っている。

何故なら自分も、足を置くスペースの無いくらい、椅子の下には

配線やらハードディスクやら、DVD-Rなどが転がっているからであり、

モニターは曲がりくねった状態で配置せざるを得ない状況にあり、

さらにあらゆる機材が次々と変調をきたしており、

まともに制作することが非常に困難な状況にあるからだ。

よって私は常に座禅の姿勢であり、

体勢を変えるにしても

面倒な所作が必要な窮屈な状態で音を制作しているのが今の現状だ。

それでも音楽はアイディアさえあればいくらでも創れてしまうと、

彼の行動からも学べるようにそのように思っている。


私はこの作品のリリースの時に、

片目の生活での不自由というものを経験し始めている状況であったのだが、

作品全体を聴くにしたがって、

音の構築と人間でありえる状態とは、

シンプルなアイディアと、

現状で持っている感覚を精一杯使用するということが

同じ事と思えてきたのである。

つまりは、右目が使えなければ左目でそれを補えば良いのであるし、

実際物を見ているのは目でなく、脳であるのだから、

思考を変えればあらゆることをシンプルに解決することだって出来るのだ。


何度も彼の音に触れるに従って、

私には夏の掴み取れない程巨大な青雲と入道雲とを連想させられ、

それが肉体を囲み込むものだから、

中心に置ける精神は感動せずにはいられなかった。

目が不自由であっても、瞼を閉じて音が呼び寄せる想いに浸れば、

丸々と太った浮子が、

胸に何十と引っかかっているようなところを、

スッとそれらが見事に外され自由になることが出来たのである。


繊細なピアノ、散りばめられた民族楽器、

逆再生され短くループされるサンプル、

太い漆黒のビート、絶妙な音の配置から生まれるアンサンブル、

私の音楽に影響を与えた大きさは計り知れない。


Remembering Today…、深夜にこの文章を書いているが、

今日という日を思い出し、

瞼を閉じれば美しく彩る事もまた可能であるかもしれない。